2010年11月01日
中高年男性”不感症”の予防薬
私は縁あって銀座に事務所がある。最近、そのすぐそばのギャラリーで、画家の堀文子さんの展示会があった。堀文子さんの絵を見たのは初めてだった。84歳を超えて、なおスケッチブックを片手に絵を描き続ける堀さんのファンは多い。先日のテレビ番組「徹子の部屋」にも出演されていた。
ギャラリーといわれる所にこれまであまり縁がなかった。しかし、行ってみて驚いたのは、大勢の人がひっきりなしに訪れ、身動きができないほどの大盛況だったことだ。しかも、来場者の8割近くが50代から60代の女性グループだったことも驚きだ。
銀座の昼は中高年の女性が目立つ。銀座といえば「ショッピングの街」のイメージが強い。老舗やブランド店が、大通りから脇の小道まで、実に多くのバリエーションをなしている。しかし、銀座は実はショッピングだけの街ではない。小さな画廊やアート・ギャラリーが、街の至る所に隠れ家のようにある。そして、今回のような小さな展示会が毎日のようにおこなわれている。街全体が「小さな美術館」の集合体だ。そして、その小さな美術館への来訪者の大半が中高年の女性である。
平日の昼間は、会社勤めの男性はなかなか顔を出しにくいだろう。しかし、退職した男性であれば、時間の面では不可能ではない。事実、ごく少数だが、年配の男性の姿も見られた。しかし、絶対数において男性が圧倒的に少ない。これはどうしてだろうか。
考えられる理由の一つは、このような展示会が開催されていることが、ごく少数の愛好家を除くと、中高年の男性にはほとんど知られていないことだ。私の場合は、ユーリーグ発行の「いきいき」という雑誌で知った。この雑誌は書店を通さずに24万部近い発行部数があり、その読者の8割以上が50代以上というユニークなものだ。しかし、実は、この雑誌の読者の96%が女性である。だから、この雑誌を通じて堀さんの展示会があることを知った男性は、自分も含めてきわめて少数派である。
二つ目の理由は、そもそも、このような展示会に直接出向こうという人が年配の男性に少ないことだ。例外はあるが、一般に女性はグループで来る場合が多いのに対し、男性は一人で来る場合が多い。たとえば、千葉や埼玉、神奈川などに住んでいる人が、都心でおこなわれるイベントに参加しようと思うとき、専業主婦だった女性と都心に通勤していた退職サラリーマンとでは参加の動機が異なるようだ。
専業主婦の場合は、ようやく子育てが一段落し、自分の好きなことに時間をかけられるようになる。普段は千葉や埼玉などの地元の店に「日常の生活」のための買い物に行く。したがって、銀座に出かけるというのは、めったにない「非日常の体験」となる。もちろん、堀文子さんの生の絵を見たい、という意思はあるが、それがないとしても、銀座に行くこと自体に目的がある。だから、多少時間がかかっても、はるばる出向いていく。
これに対し、退職サラリーマンの場合は異なる。よほど自分がその分野を好きでない限り、わざわざ都心まで出向く気にならない人が多い。サラリーマン時代、通勤で散々つらい思いをした電車に乗って都心に行くことが嫌だという人もいる。あるいは展示会は興味があるが、それだけのために、わざわざ時間をかけて出向くのは面倒くさいという人もいる。したがって、このような人は、雑誌や新聞等で展示会の開催案内を見たとしても、「手間・暇をかけてその絵を見に行こう」という行動に移らない。
銀座に来るも、来ないも、展示会に行くも、行かないも、個人の選択の問題なので、そのどちらが正しくて、どちらが誤りだということはない。ただ、私自身を含めて、中高年男性は、油断をすると堀さんのような素晴しい感性に触れる機会から疎くなりがちだ。特に、会社を中心軸においた生活を長く送っていると、物事に対する「不感症」になる危険性が大きい。
このような不感症になりたくてなる男性はいない。ただ、気がつくとそうなってしまいやすいと感じる人は多いはずだ。したがって、中高年男性をターゲットにしているメディアには、このような「サラリーマン不感症」を予防してくれる”力”のある作品への「つなぎ役」としての役割が求められる。ここでいう作品とは、美術作品だけを意味するものではない。
ただし、それは単に対象となる作品を紹介すればよいというものではない。その「力」とは、究極、その作品がもつ力である。それを、どのようにひきだして伝えられるかは、そのメディアの編集者の力量による。だから、これからの中高年向け雑誌・番組は、その力量で取捨選択されるだろう。以下は、私の琴線に触れた堀さんの言葉である。
この目で見たい、文明の発達のおかげで私達は、自分で行くことのできない密林や洞窟、深海や砂漠に住む生き物を居ながらにして映像で見ることができるようになった。ビデオで初めて見る未知の生物の不思議さ、美しさに感動すればする程、自分の目で見、耳で聞き、その場に立っていないのに識ったような気になっている言いようのない欠落感が私を不安にするのだ。(中略)私に必要なのは、ますます深まる生命の不思議を見つめる感性を研ぎ、日々の衰えを食い止めることなのだ。
残り少なくなった私の日々は 驚くこと、感動すること、只それだけが必要で、知識はいらない。
2003年5月30日 Vol. 30 村田裕之
(ウインズ出版 堀文子画文集「命の軌跡」より)
ギャラリーといわれる所にこれまであまり縁がなかった。しかし、行ってみて驚いたのは、大勢の人がひっきりなしに訪れ、身動きができないほどの大盛況だったことだ。しかも、来場者の8割近くが50代から60代の女性グループだったことも驚きだ。
銀座の昼は中高年の女性が目立つ。銀座といえば「ショッピングの街」のイメージが強い。老舗やブランド店が、大通りから脇の小道まで、実に多くのバリエーションをなしている。しかし、銀座は実はショッピングだけの街ではない。小さな画廊やアート・ギャラリーが、街の至る所に隠れ家のようにある。そして、今回のような小さな展示会が毎日のようにおこなわれている。街全体が「小さな美術館」の集合体だ。そして、その小さな美術館への来訪者の大半が中高年の女性である。
平日の昼間は、会社勤めの男性はなかなか顔を出しにくいだろう。しかし、退職した男性であれば、時間の面では不可能ではない。事実、ごく少数だが、年配の男性の姿も見られた。しかし、絶対数において男性が圧倒的に少ない。これはどうしてだろうか。
考えられる理由の一つは、このような展示会が開催されていることが、ごく少数の愛好家を除くと、中高年の男性にはほとんど知られていないことだ。私の場合は、ユーリーグ発行の「いきいき」という雑誌で知った。この雑誌は書店を通さずに24万部近い発行部数があり、その読者の8割以上が50代以上というユニークなものだ。しかし、実は、この雑誌の読者の96%が女性である。だから、この雑誌を通じて堀さんの展示会があることを知った男性は、自分も含めてきわめて少数派である。
二つ目の理由は、そもそも、このような展示会に直接出向こうという人が年配の男性に少ないことだ。例外はあるが、一般に女性はグループで来る場合が多いのに対し、男性は一人で来る場合が多い。たとえば、千葉や埼玉、神奈川などに住んでいる人が、都心でおこなわれるイベントに参加しようと思うとき、専業主婦だった女性と都心に通勤していた退職サラリーマンとでは参加の動機が異なるようだ。
専業主婦の場合は、ようやく子育てが一段落し、自分の好きなことに時間をかけられるようになる。普段は千葉や埼玉などの地元の店に「日常の生活」のための買い物に行く。したがって、銀座に出かけるというのは、めったにない「非日常の体験」となる。もちろん、堀文子さんの生の絵を見たい、という意思はあるが、それがないとしても、銀座に行くこと自体に目的がある。だから、多少時間がかかっても、はるばる出向いていく。
これに対し、退職サラリーマンの場合は異なる。よほど自分がその分野を好きでない限り、わざわざ都心まで出向く気にならない人が多い。サラリーマン時代、通勤で散々つらい思いをした電車に乗って都心に行くことが嫌だという人もいる。あるいは展示会は興味があるが、それだけのために、わざわざ時間をかけて出向くのは面倒くさいという人もいる。したがって、このような人は、雑誌や新聞等で展示会の開催案内を見たとしても、「手間・暇をかけてその絵を見に行こう」という行動に移らない。
銀座に来るも、来ないも、展示会に行くも、行かないも、個人の選択の問題なので、そのどちらが正しくて、どちらが誤りだということはない。ただ、私自身を含めて、中高年男性は、油断をすると堀さんのような素晴しい感性に触れる機会から疎くなりがちだ。特に、会社を中心軸においた生活を長く送っていると、物事に対する「不感症」になる危険性が大きい。
このような不感症になりたくてなる男性はいない。ただ、気がつくとそうなってしまいやすいと感じる人は多いはずだ。したがって、中高年男性をターゲットにしているメディアには、このような「サラリーマン不感症」を予防してくれる”力”のある作品への「つなぎ役」としての役割が求められる。ここでいう作品とは、美術作品だけを意味するものではない。
ただし、それは単に対象となる作品を紹介すればよいというものではない。その「力」とは、究極、その作品がもつ力である。それを、どのようにひきだして伝えられるかは、そのメディアの編集者の力量による。だから、これからの中高年向け雑誌・番組は、その力量で取捨選択されるだろう。以下は、私の琴線に触れた堀さんの言葉である。
この目で見たい、文明の発達のおかげで私達は、自分で行くことのできない密林や洞窟、深海や砂漠に住む生き物を居ながらにして映像で見ることができるようになった。ビデオで初めて見る未知の生物の不思議さ、美しさに感動すればする程、自分の目で見、耳で聞き、その場に立っていないのに識ったような気になっている言いようのない欠落感が私を不安にするのだ。(中略)私に必要なのは、ますます深まる生命の不思議を見つめる感性を研ぎ、日々の衰えを食い止めることなのだ。
残り少なくなった私の日々は 驚くこと、感動すること、只それだけが必要で、知識はいらない。
2003年5月30日 Vol. 30 村田裕之
(ウインズ出版 堀文子画文集「命の軌跡」より)
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